間接的なカルマ


 
シュタイナーは、”間接的なカルマ”みたいなことを言っている
当人がこんな表現を使ったわけではないが、
勝手にこういう表現を使う。
 
どういうことかというと、
自ら意図しなくても、何か行為が行なわれた場合、その副次的な影響も
カルマとして、跳ね返ってくるというのだ
 例えば、
銀行に預金したとして、その金が戦争のための融資に使われたとしたら、
預金者はその金額の大きさにおうじて、それなりのカルマを背負うことになるという。
 
この考えによれば、
自分の行動だけに注意をし、ひたすら自分の行為だけ正しければいいというような
態度は、むしろ利己的なものとして咎められるべきものとなる。
人間は、互いに繋がっているので、
あらゆる影響を考えに入れなくてはならないらしい
 
 よくカルマを
池に石を投げた時に生ずる波紋のようなものとして
説明する人がいる
(マハリシ・ハヘッシ・ヨーギだったか・・・・忘却)
波紋が池の縁で跳ね返ってふたたびもとのところに戻ってくるように
カルマも行為者の元に戻ってくるというのだ。
この説明の仕方からすると、
”間接的なカルマ”という考えも納得できるところがある。
池に生じた波紋は
あっちこっちの縁に跳ね返って
さまざまに重なって広がっていくものだろうから
 いや、たとえの話に整合性を求めても、
仕方がないことではあるけど・・・
 
行為がそれ単独であるということはやはりあり得ないだろう
一つの行為はさまざまなところに影響を及ぼす。
これは納得できる
 行為が
一つだけ孤立しているということはあり得ない。
 
間接的なカルマということを
考えると、毎日の行為にもいっそう注意を
払わずにはいられない。
自分のどんな行為も、一見関係のないと思えるようなことにまで
影響を及ぼしているかもしれない。
逆に、世の中で起こっていて
例えば海の向こうの
自分と全く関係が無いようにみえることにも、
自分の行為が遠い原因となっているのかもしれない。
 
「先進国が富を独占しているから
途上国は貧困に苦しんでいる」なんてことがよく言われる
これなんかも、
自分は悪いことをしているつもりは全くないのにも関わらず、
他の世界のことに無関心であるために、
結局世界に悲惨を生み出してしまっているという点で、
「間接的なカルマ」といえるのかもしれない。
 
「間接的なカルマ」という考え方が面白いのは、
結局のところ、
世界に本当の変化をもたらすためには、
このような発想が必須ではないかということにある。
 自分の行為がこの世界と関連しているという認識なくしては、
世界全体を調和させる行為ができるはずがない、と思う。
 
 
 
 
唐突なことだけれど、ガン細胞の成長には、
どうも納得が行かないことがある。
ガン細胞だと分かっているのに、
なんでそこに栄養がまわってしまうのだろう
 体の機構は、案外間抜けなものである
 
ところが、これは実際の世界についても同じ事で、
シュタイナーが例にあげているように
戦争を起こすようなところに、金なり労働力なりがまわってしまう
 
人が、自分の行為の行く先に無関心であるために、
ガン細胞に栄養を回すようなことを、結果として行なってしまうのだ
間接的なカルマのような発想から
行為の行く末に注意を向ける必要があるのかもしれない
 
これは日常生活で言えば
たとえば
不祥事を起こした企業の製品を買わないとか
人権無視だと思ったらその週刊誌を買わないとか
まあそんなことになろうかと思う
 「栄養」を回してしまっては
こっちもその主体と同罪である
結果的にその主体の行為を強化してしまうようなことは
しないということを意味する
 
もっとも
人によって世の物事に関する感度は違うのだから
共通の行動の指針のようなものはできないだろう、と思う
自分の感性で判断すればいいと思う
 
あぶないのは
世によくある
「不買運動」のような連帯した動きだ
これは圧倒的な敵に対しては
力が結集できるために、大変有効だった
しかしこのような連帯が起こると、
それぞれは正しい判断をするというより、
むしろ連帯している快感のために動くことになってしまう。
冷静さを失い、
意識水準のようなものが低下して
動物的な動きになってしまう。
それでいつもついやりすぎたり、見当違いの方へ突進する
 
あくまでも、個々人の
独立した
自立的な動きであって欲しいと思う。
 
またこのような動きであれば、
個人の判断の誤りも
全体としては吸収できる
 
 
 
間接的なカルマとは
自分の行為に
徹底的に責任を持つということになる
 
 
 

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