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オウム解体 
上祐史浩&宮崎学 
  
  
 

 

週刊誌のためになされた対談を再構成したもの。
上祐氏が案外教祖の呪縛のようなものから
解かれているところが
ちょっと驚きでした。
「失敗したグル」であることを認めたりして、
ある程度は現実的な感じがします。
もちろん言いつくろっているところはあるでしょうが、
マスコミの作り上げている
虚像と言うようなものが実際と違っている
と言うのは確かなようです。
宮崎氏のほうはさすがに裏の道を歩いてきた人
だけのことはあり、
今の段階でオウムがどんなに反省して見せても
どうせ叩かれることを
指摘して、
「どうせ何やっても世間はバッシングするんだ」と
冷静です。
小利口に立ち回ろうとする上祐氏の限界を指摘していて、
世間と言うのはそのように理詰めで動くわけではない
と言う事を説いています。

オウムの事件をこうした会話の中で改めて振りかえると
その現実感のなさというか、
行き当たりばったり感というのがやはり一番の
驚きです。
坂本弁護士を誘拐するときも
休日だと言う事を忘れていて、
慌てて行ってみたらたまたま
鍵が開いていたので押し入ったということや、
松本サリン事件のときも標的の裁判官は
すでにいなくなっていたので、
そこらに適当にまいたというようなところ、
殺菌しながら有害菌をまいていたという
わけの分からなさなど、
端から見ると全然理解できないこういう
行動のパターンはどう見たらいいのでしょうか。
(事件の後になっても、
オウムの危険度にみなが注目している、
一番自重しなくてはならないときに
姉妹喧嘩で警察沙汰になったり、
このタイミングの悪夢のような合い方、どうなっちゃっているんでしょう。)

概念化が過ぎるあまり、
目の前の鉛筆が掴めないのに似た
知覚の異常みたいなものが起きているのでしょうか

宮崎氏がオウムに
当初「アウトロー」としての役目を求めていて
それがすべて失望に終わったと言う事も、
面白すぎる冗談を聞いているようで、
改めて聞くと笑ってしまいます。

上祐氏の話しを聞いていると、
オウムは社会の批判をなんとかかわそうと
いろいろ組織変革をしているのですが、
それでもうまく行かなかった場合、
最終的に消え去っても、
それはそれでかまわないと考えているようです。
そうなった場合でも「オウム人」というものの誕生に
望みをつなぐ、と言っています。
急に話が飛躍してしまうようなのですが、
オウム人とはつまり現代の物質主義からの自由を目指すと言う
新しい人間だということです。

オウムの話がわけがわからないのは、
まじめに聞いているといきなり
こんな俗なSFアニメのアイデアのような飛躍をしてしまうためです。
現実を見ているのか夢を見ているのか、
なんでも話の重みにむらがありすぎるので
受け取るほうはどの程度の重さで
受け止めて良いものかわからなくなってしまいます。

というわけで危険と言う点では
言われるほどの問題はほとんどなさそうなのですが、
現実感のない感じなど
あいかわらずオウムはオウムなのでした。

 

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