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恐怖なしに生きる ジッドゥ・クルシュナムルティ 平河出版社 1997

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内的な「到達」というようなものが、つまり到達すべき目標や到達すべき目的といったものがあるのだろうか。
思考が、神や無上の幸福や、成功、美徳などといった目的を定めたのである。
だが思考は単なる反応、記憶の反応にすぎない。
また思考はあるがままの姿と、あるべき姿の間を埋める、時間というものを生みだす。
「あるべき姿」つまり理想とは、言葉や論理によるもので、実体など全くない。
現実のものには時間など存在しない。そこには達成すべき目的も、歩むべき距離もない。
ただ現実だけが存在し、それ以外はなにもない。



この人の言うことは、いつも難しい。
理解することが難しいというより、理解することそのものが怖いため、なかなか理解することができない。

なにしろこの人の言うことは、他の多くの「すぴりちゅある」な指導者の言うこと とも矛盾している。ちゃねりんぐなんかで言われることとも、全然違う。
臨死体験者の「気づき」にすら時には矛盾するのだ。

この人は一切の達成や進歩というものを否定する。
といのはそれらはすべて、「獲得」の過程であり、現在への不満に基づいたものであり、不満=恐怖から引き起こされた衝動にすぎないのだ。

人間は常に恐怖にとらわれており、その恐怖から自分は「何者かにならねばならない」「何事かをなさねばならない」と思う。
その結果今あるものから目をそらすことになり、 ここに本来存在しないものである「時間」が生まれる。
この時間の幻想を生むことで、人は「立派な何者かになる」と言う幻想に頼り、恐怖と今に対して目を閉ざすのである。
しかし実際には時間はない。そのために約束された、「未来に何ものかになる」と言う変化の瞬間は決して訪れないのである。つまり、変わらなくてはならないのは「今」であるにもかかわらず、時間の幻想にとらわれてしまうために、「今」を逃し、決して変わることがないのだ。それで、恐怖のみが、持続する。人は決してこの事に気づくことはない。

恐怖は人間に破壊的に作用する。
恐怖と「思いやり」と言うものは共存できない。 世の中をこのように惨めなままにしているのが恐怖の作用である。

恐怖を克服するためには、まず何かになることを一切止めなくてはならない。

しかしこの人の言うことを受け入れるということは、これまで価値のあると思っていたことすべてを捨て去るということを意味する。

例えば、現世的なもの、「すぴりちゃる」なものにかかわらず、何かを達成することに価値があると思っていたこと。今日より明日がましだとおもっていたこと。
「悟る」ということでなにものかをなせると思うこと。そういったことは一切諦めなくてはいけない。

だからこの人の言うことを理解することが難しいというのは、語られている内容が難しいというのではなくて、語られている内容を理解する際に、すべてこれまで信じてきたことを手放さなくてはならないということが恐ろしいのである。この不安定なジャンプをしなくてはならない瀬戸際のところで、思わず後ずさりして、わざと理解することを保留してしまうのだ。それでいて、「この人の言うことは理解できない」と言うのである。

だが私ら凡人としては、獲得がなにももたらさないかもしれない予感を感じつつも、
そして今すべてを止めなくてはいけないことを理解しかけながら、
『「獲得の快」をもう少し味わわせて』、と、これまでの日常に固執してしまう。
そして決定的なショックを伴う出来事が起きるまで、夢を見続けるのである。
うーむ、哀しい。


恐怖の一つの原因は比較でしょうか。つまり自分を誰かと比べることですか。
そのとうりです。ではあなたは、自分を誰とも比較しないでいきることができるでしょうか。
私の言っていることがおわかりですか。
イデオロギーの上でも、心理的にも、また肉体的にさえも、自分を誰かと比べるとき、そこには相手のようになろうとする懸命な努力があり、そしてそうはなれないかもしれないという恐怖があるのです。実現したいという願望があるのに、実現できないかもしれない。・・・比較があるところには必ず恐怖があるのです。
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