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人にはなぜ教育が必要なのか 小室直樹 色摩力男 総合法令 1997


さらに悪いことには、平等か教育を強制されることとが、教師のヤル気をトコトンまでうばっています。
日本では、中世の身分社会をうちやぶって「平等」が出てきたという歴史がありません。だから、「平等」の意味がわからないのです。歴史も何もないところへ、いきなり「平等」を押し付けられて、それに反対すると、封建的だの、やれ帝国主義的だのととかいわれたのでは、たまったものではありません。
平等教育なのだから「どの生徒にも同じく接しなければならない」となります。しかし、これは教育ではありません。こんなことでどうして生徒の個性が伸ばせますか。



やや年をとった二人による教育談義で、ところどころアナクロ気味なのだが、このような教育の状況下では的確なことを言っているようにも思える。
いきなり教育勅語を持ち出したり陸軍幼年学校の教育体験を回想して「すばらしい」と礼賛しているところではさすがに引いてしまった。小室氏によれば、教育勅語は資本主義のベースとして、皆がよってたつ基本原理を確立したというところにそのすごさがあるそうだ。何か偏った感じがするが。



色摩氏は移管してエリート階級の必要性を説いている。ここでいうエリートとは階級制度のことではない。エリートというのは、氏によれば、「やらなくてもいいのになんでまたそんな責任を背負おうとするんだ」と平凡な一般大衆から言われてしまうような、その立場に応じた責任を進んで担おうとする人のことだ。だから、あらゆる階層にエリートがいるのだ。このことをオルテガなどを引用したり、「偉人」の言葉などを引用したりして説明している。例えばチャーチルは「エリートのない社会は滅亡する」といったという。 これは言ってみれば社会の「背骨」とでも言うべき存在のことらしい。社会が機能していくためには要所要所で妥協をしない厳しさを担う人々がいなければならない。 ところが一般大衆は民主主義を勘違いして理解しているので、あらゆる権威的なもの、厳しさを伴うものを嫌悪し、それと認識するや否や、まるで病原体を見つけた免疫細胞のように攻撃を加える。このようにしてどこにも欠くがない、軟体動物のようにぐにゃぐゃの情けない社会が出来上がる。
これが今の日本の教育に害を及ぼしている。

言いたいことは分かるし、個人的にもこれは正しいとは思う。だが、エリートという表現をここで使わねばいけない理由が今一つ理解できない。その立場に応じて何事かをなす人、というのならもっと適切な言いようがあるように思うのだが。 ここに関してはちょっと回顧主義におぼれて、思考が不自由になってしまっているような感じがする。

とにかく、現代の教育に関しては、厳しさと規律の必要性がまったく理解されていない。権威を毛嫌いしているので、そんなものは存在しないことになっている。結果そういったものなしに社会の調和を生みだそうという、なんだかよくわからない状況になっている。卵を割らないで目玉焼きを作ろうとしているような・・・。読んでいると、そんな感じがする。

最近、いろいろな少年犯罪が増えて教育の話題もよく耳にする。そんな中、「持ち物検査」さえ人権問題とかでできないということを初めて知って仰天した。なんでここで「人権」が出てくるのだろう。さっぱり分からない。おまけにあるはずもない信頼関係がどうのこうの言っている。日本の一般の父子関係そのままである。
外国での教育の捉え方というのは、「子どもは生まれついて野蛮で騒々しく、彼らに規律を身に付けさせるには犬のようにひっぱたいてでもたたき込まないと身につかない」という至極まっとうな考え方である.例としてあげられているように、電車などの中でやかましく騒ぐ子どもはひっぱたかなくてはならないという了解がいきわたっている。親がそうしないのなら、近くにいる別の誰かがそうしなくてはならない。
これに対して、日本ではなにか子どもに対する幻想が幅を利かせている。「子どもは神様」というような日本の伝統が変な形で息づいている。自由のはき違えとこれが一緒になって、今日の教育が、何処に焦点を当ててよいものか誰も分からないというような、末期的なものになっているようだ。



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