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「市民」とは誰か 佐伯啓思 PHP新書 1997

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このところ人気の高い「市民」という言葉についていちゃもんをつけている。 最近「市民の力を結集しよう」という言葉は何かというと耳にされる。 この本の中で例としてひかれるように、民主党などの政党やよく売れる本において、「市民」という言葉の大安売りが続く。

著者はこの言葉の使い方がいかに薄っぺらで、使われてきた文脈から外れているかを説いている。
例えば、国家に対するものとして「市民」という言葉が使われるが、
実は歴史的には「市民」という言葉は公への義務と不可分なものとして使われてきたのだ。より大きなものである、例えば「国家」なくしては「市民」もない。「市民」にはその前提として共同防衛の意味がある。それは義務に基づいた「身分」のことだ。だからルソーも、市民の「国のために死ぬ」義務を説いた。二つは対立しない。

ところが日本に「市民」という言葉が入ってきたときに、そうしたヨーロッパの歴史の裏付けは無視された。戦後の思想の流れの中で、半ば意図的に、ただの国家への一方的な嫌悪をうまく説明してくれる言葉として使われてきたのである。結果、根っこのない、ぺらぺらの、わがままを表す言葉となってしまった。

確かに青島・横山という両市長の誕生は、「市民」パワーの力を見せ付けた。
しかしその後の両氏の堕落ぶりには目も当てられない。とくに青島さんはひどく 、堕ちた、という話題自体がもう昔のことで、あのような状態になっても気がついてみればまだいる。これらは「市民」の力と同時にそのムードに流されやすい、というような志の低さも示したといえる。

言葉に初めから「根っこ」がないので、その言葉が活きる、というような状態というのは、安っぽいムードや雰囲気になりがちであるらしい。

しかしこの本、正直なところ、年寄りの「近頃の若者は・・・」風な愚痴にしか思えないところもある。「言葉づかいがなっちょらん」と怒られているみたいだ。
いくら「歴史が」「起源が」と言われても、こうしてあるし、使えるのだからいいのでは、と思ってしまう。たしかに日本だけ「市民」という言葉はいびつになってしまった。「市民のための政党」という言葉に、あるアメリカ人は当たり前で意味を成さないとして失笑してしまったという。だが日本では当たり前のことも改めてキャッチフレーズにしないと分からないという状況がある。

実質がないというのだが、これは後から加えちゃ、駄目なんだろうか。
「市民」というときに、なにに対しての市民か、という問いに、鳩山さんなどは「地球的市民」、と答えている。著者の言うように、現実味のない言葉に一寸笑ってしまう。真ん中の国家をすっ飛ばして一気に「地球」まで行ってしまうところが面白い。
だが同時に、別にいいじゃん、とも思う。国家に対する市民という発想が外国では当然としても、これは危険な視点でもある。適切な距離感を取るのは難しい。
問題は、市民という言葉を使いたがる側にも、「地球的市民」とはなにかが実質をともなって分かっていない点にある。これに第一に焦点を合わせる形で、欠落している「国家に対する市民」という視点を取り込んでいけばいいんではないか?
まだ「地球的市民」というほど人間の意識は進んでいないのだ。


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