ジークンドーへの道(ブルース・リー) キネマ旬報社


 
 

 ブルースリーが、療養中に書き上げたジークンドーについてのノートや、折りに触れて書きとめたメモをまとめたもの。
こりゃ、すごい。一口ふうのコメントが箇条書きのように並ぶ。膨大な量。日々気づいたことを毎日メモにしているよう。「歩み続けよ」という座右の銘そのままに、毎日「精進」していっていたらしいくそまじめぶりがあらわれている。

ブルースリーの描いた解説イラストなんかも載っているのだが、妙にうまいので、これもすごい。まあ、中には書きなぐったようなものもあるのだけど。

原著は1975年に出ているようで、1997年に日本版出版というこの時間的な隔たりがずいぶんと意外な気もする。こんなに興味深い本が長くほうっておかれたのは不思議。もしかしたら前に別の訳で出ていたのかもしれない。
(後記:「秘伝せっ拳道への道」(風間健 訳)コンコルド東通、として出ていたそう。メールで教えてもらった)

ジークンドーというからには、その技術が(初期の原始的な形で)説明されているのだが、そのほとんどはどちらかというと、キックボクシングについてのあれこれについてのものになっている。こういう方面、つまり武術的なテクニックなどのことについては余り興味はないのだが、それでもざっと読んでみると、拳法などの色合いを持つ説明はほとんど見当たらない。もう、ほんとにキックボクシングだけの世界?のように思える。一体、ブルースリーのベースになっていたはずの詠春拳はどこへ行ってしまったの、と言いたくなる。
そういえばジークンドーの教則ビデオの副題も、「ジュン ファン キックボクシング」となっていた。
武術の実戦性についてこだわりにこだわっていたということは、読んでいてもよく分かるけど、伝統的な武術というのは実戦性に欠けるということで、キックボクシングの形になっていったらしい。
伝統的な武術に対しては、所々に皮肉めいた否定の表現があった。
「型」の足の運び方について、「実際の戦闘で、あんな足の使い方をするわけがない」などと言っている。
伝統として確立されていく中で、いつのまにか様式化してしまい、その時々の「生き生きとした現在」から乖離してしまったと言って非難している。
 

戦いの方法を何らかの流儀に沿って教われば、その方法の限界内で戦うことはできるかもしれないが、それは真の意味の戦いではない。
 

古典的な「型」は創造力を鈍らせ、自由の感覚を条件付けし、固定してしまう。
 

生きているものを相手にするのに、一体どうして方法論やシステムを確立できるのか!
 

戦いは拳法家、空手家、柔道家といった条件付けによって規定されるものではない。

聞いているともっともという感じがする。
 

 中に、「精神的修養」という項目があり、3つの箇条書きがある。見てみると禅、タオイズムなどと並んで、第一として「クリシュナムルティ」と書いてあって、これはもちろん、驚いてしまった。なかにはクリシュナムルティが言ったことそのままだ、なんていう言葉があちこちに出てくる。
流派や型にこだわる武道家を「伝統主義者は云々」と言って非難するなど、古い宗教に凝り固まった人々を表現する時のクリシュナムルティの言い回しと似ている。
他にも

「成る」ことは「或る」ことの否定である

問題は決して問いからかけ離れていない。問題こそが答えなのだ。

賢明でシンプルな人間は選択をしない
 

というところなんかはクリシュナムルティの言葉をそのまま引いているみたいな文章。変なところで懐かしいものに会ってひっくり返りそうになった。

しかし考えてみれば、クリシュナムルティと武道家というのは奇妙な取り合わせである。
クリシュナムルティの本の中に、軍人から瞑想について聞かれてクリシュナムルティが奇妙に感じるというところがあったが、あれと似ている。攻撃の仕方についてさんざん解説しつつ、クリシュナムルティが出てくるとは誰も思わない。その分矮小化されてしまっているのは確かである。
 

本の中では、最初と、最後の章がいちばんいい。(単に他の項目に興味がないからかもしれない)

ジークンドーにかぎらず、生き方全体について、意味ありげな面白い表現が続いている。
これがうわべだけのきれいごとでもなく、血肉が通っていることが感じられる。たいへんな読書家だということだけれど、そういう蓄積がこういう所に染みだしているように思う。

われわれの存在のコントロールは、金庫のコンビネーションに似ていなくもない。つまみを一度回しただけでは滅多に金庫は開かない。前進と後退の一つ一つが、最終的なゴールへのステップなのだ。

仲間に対して不公正になることを防いでくれるのは、正義の原理よりも同情である

多くの場合、われわれがもっとも情熱的に追い求めるのは、われわれが本当に欲しながらも、手にすることのできない何かの代用品なのである。
 

どれもなかなかいい。

 最後は、「ごちゃごちゃ言うようだったら、ジークンドーなど消してしまえ。それは名前にすぎない」とまたカッコよく決めている。
カッコはいいのだけど、これもなんかクリシュナムルティっぽく、「私を新たな権威としないで欲しい」という言葉と重なってきてしまう。
 

一つ一つの言葉は面白いのだけれども、精神性を特に強調したものなどは、本人の像と合致しないので違和感がある。
「精神と意志の力で、カルマ(運命)も超越できるのだ」、と悟り澄ました割には、結局運命に押しつぶされるような最期を迎えてしまったようなことなどを考えると、どこか弱い人間であるような危うい感じもぬぐえない。
でもこうして毎日自省して進もうとした人間がいたということが、マルクス・アウレリウス帝のように、やっぱり感動してしまうのである。