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最近の読書のページ


やっぱり幽霊ページになりかけているような・・・
最近この手の読書していないからなあ。



癒しの光(下)バーバラ・アン・ブレナン 河出書房新社 1997 97・9

いわゆるヒーリングの解説書。半端なものではない。超知覚的能力を持つ著者が人間のエネルギーフィールドから何からずっと掘り下げて考察し まったく独自のヒーリング体系を作り上げてしまった。
そのメカニズムを説明するのに、結構な厚みの本上下二冊が必要だったらしい。 (下は読んでいないけど。)
前の「光の手」もそうだったが、まったくの実践的な書として書かれていて、 あまり些末的なことや、オカルトチックな、いわば興味本位のようなことは問題にしていない。 ヒーラーのための教科書という位置づけらしい。
実際著者はニューヨーク州のヒーリングスクールの校長で、 ここはアメリカ全土で教育単位としてみとめられている。 それだけに、シロートが読むと、ちょっと荷が重いところがあるかもしれない。

考えてみればかなりヘンテコなことを言っているかもしれないのに、著者の文章は終始、こんなものだ。

エスターのヒーリングでは、大部分の時間をハートチャクラに使った。まず停滞していたエネルギー を浄化した。それからいたんだコードを引っ張り出してもつれをほどき、浄化とチャージをして強め 、父親のハートチャクラにつなげた。それが終わると、HEF第四レベルとハートチャクラに形を取り始めた。 私は長く鋭い槍状の物体を彼女の心臓の左から取り出した。

ここだけ急に取り出して読むと、それこそ異様なのだけども、こんな、さも当然という冷静な表現が、 独自の確固とした世界観を積み立てつつ続くのだ。
読んでいると、なんとなく納得してしまう。
本の前半では各チャクラの説明とそれにまつわる疾病とヒーリングの実際、 真ん中は性格分析とエネルギーフィールドすなわちオーラの動き、後半では体というものの見方の 次元を深めて、ハラ(腹)、コアという自己の存在の基盤を解読して行く。
面白いのは性格によるエネルギーフィールドの動き。
性格分類という話題自体、ひとをひきつけるものであるし、それがオーラと結びつくとどうなるか という興味も出てくる。 著者の5つの性格分類は、なんだか偏っているような気もするのだけれど、
それぞれスキツォイド(分裂質)、オーラル(口唇質)、マゾキスト、リジッド(硬直質)、サイコパス(精神病質)という。
おのおの他人と接触するときに独自のエネルギーフィールドの動きをもち、その問題点と対処の仕方を説明していく。
54K_illustration
この本のイラストは、かなり笑えます。


例えばサイコパスタイプの人は裏切られる恐怖が常に付きまとい、そのため世界に対し、戦うしかない、と思い込む。 エネルギーフィールドを上体に集め、背中の意志のチャクラにチャージし、背中にそって 頭ごしに敵にぶつけるのだ。そのために第一、第二チャクラの力が衰える。これは具体的には性的不能などとして現れる。

と、こんなことを自分はどれなのか、考えながら読んでいると、なかなか面白い。
とはいえヒーリングの道を実際に進もうという者以外には、エネルギーフィールドなどを初めとする これらの表現が、実際にはあまり意味のある説明とも思えない。
だがこれらの表現を例えば「雰囲気」とでも読み替えてみると、納得がいくところが多い。 このように引用すると、著者の説明の仕方がうまく伝わらないかもしれないが
これらは体系的な世界観に基づくもので、なんとなくひきこまれてしまうのだ。
明らかにこの人は何か特別なものを実際見ている。
人によっては、ついてゆくのは難しいかもしれないが・・・
特に、チャネリングしている「ヘヨアン」という存在などがしょっちゅう顔を出すが、これなど どのくらいまで信頼してよいものかとまどうだろう。「ヘヨアン」の言っている内容は、著者も中で触れる「エマニュエル」に近いようだ。

著者の基本的な立場は「効果があればそれで良い」というところにある。
この立場からすれば、内容が「真実かどうか」ということはあまり問題ではないのかもしれない。
けっこう面白い本であるのには違いがない。
著者のヒーリングスクール、the barbara brennan school of healingの四年間の過程を卒業して 日本でヒーリングをやっているヒーラーはまだ無いそうだけれど(訳者は卒業しているが日本在住ではない)、 この本を読んでその気になって、この道を行く人が出てくれると(実際、いるだろう多分)面白いなあとも思う。
見て欲しいものだ。


ピエドラ川のほとりで私は泣いた パウロ・コエーリョ 地湧社 1997

女性か泣いているというイメージかまずひらめいたのでしょうか、 そのような情景が印象的に繰り返されます。
だがそれがなぜ泣いているかというところになると、何か物語の流れとの 有機性を欠いて無理があるような気がする。
例によって、「百匹目のサル」を含めたニューエイジ風知識が披露されるのですが そのような知を提示しておいて一方主人公初めとする物語が、いかにもみみっちい。
「愛なのよ」「恋なのよ」と騒いで右往左往、ただ泣いているだけです。 小説にするため無理している感じ。
そこらに目をつぶって楽しむぶんには、どうでもいいことですが。

コエーリョさん

ぱうろ・こえーりょ.
似てない。認める。
でもこんな雰囲気。





つづく?
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