コーランにはこうある。
神は自身の熟練したペン使いによって人間に教えた、と。
これはどういう意味だろう。
こういうことだ。内なる生活を生きる人間にとって、彼の見るあらゆるものは書かれた文字であり、この目にみえるすべての世界は一冊の書物なのだ。
彼はまるでそれが友人から書かれた手紙であるかのように読むのである。
彼は、永遠の生を示唆するものとして外の物事を必要としていない。
まさに彼の生活そのものが永遠に続く生の証拠だ。
彼にとって死は影、それは変化、それは片側からもう片側への相の転換にすぎない。
東洋の偉大な聖人は ひとつの言葉を繰り返した。
例えば「神は一つなり」といったことだ。それも生涯たぶん何百万回と。
彼らは一度そう言うだけで理解できないほど鈍かったということだろうか?
なぜ彼らはそれを百万回も繰り返したのか?
その訳は、決して十分には言い足りないからだ。
わたしたちは朝から晩に眠りにつくまで、幻影のただなかにある。
私たちはこの朝から晩まで続く幻影についてなにも分かっていない。
私たちの知らないことが真理なのではない・・真理とは既に私たちの知っていることだ。なんであれ、十分に知るということがあったなら。
だから神秘主義者は、真理を知ろうとするのではなく、真理を探そうというのではなく、真理を保ち続けようとする。
彼は真理の概念にしっかりとくっついて離れることはない。
彼の目の前にある真実性のビジョンを保つために。
さもないと、それは何千という幻影のヴェールに覆われてしまうだろう。
唇が閉じられると、ハートが語りだす。
彼が人生をそのハートで、その魂で理解したとき、自分のからだを一着のコートとしてみる。
もしコートが古くなればそれを脱ぎ捨て、新しいのをまとうだけだ。
というのは彼の存在はコートとは無関係だからだ。
死の恐怖が続くのは、人間が自分の存在は身体に依存していないことを知らない間だけのことである。