なにしろこの人の言うことは、他の多くの「すぴりちゅある」な指導者の言うこと
とも矛盾している。ちゃねりんぐなんかで言われることとも、全然違う。
臨死体験者の「気づき」にすら時には矛盾するのだ。
この人は一切の達成や進歩というものを否定する。
といのはそれらはすべて、「獲得」の過程であり、現在への不満に基づいたものであり、不満=恐怖から引き起こされた衝動にすぎないのだ。
人間は常に恐怖にとらわれており、その恐怖から自分は「何者かにならねばならない」「何事かをなさねばならない」と思う。
その結果今あるものから目をそらすことになり、 ここに本来存在しないものである「時間」が生まれる。
この時間の幻想を生むことで、人は「立派な何者かになる」と言う幻想に頼り、恐怖と今に対して目を閉ざすのである。
しかし実際には時間はない。そのために約束された、「未来に何ものかになる」と言う変化の瞬間は決して訪れないのである。つまり、変わらなくてはならないのは「今」であるにもかかわらず、時間の幻想にとらわれてしまうために、「今」を逃し、決して変わることがないのだ。それで、恐怖のみが、持続する。人は決してこの事に気づくことはない。
恐怖は人間に破壊的に作用する。
恐怖と「思いやり」と言うものは共存できない。 世の中をこのように惨めなままにしているのが恐怖の作用である。
恐怖を克服するためには、まず何かになることを一切止めなくてはならない。
しかしこの人の言うことを受け入れるということは、これまで価値のあると思っていたことすべてを捨て去るということを意味する。
例えば、現世的なもの、「すぴりちゃる」なものにかかわらず、何かを達成することに価値があると思っていたこと。今日より明日がましだとおもっていたこと。
「悟る」ということでなにものかをなせると思うこと。そういったことは一切諦めなくてはいけない。
だからこの人の言うことを理解することが難しいというのは、語られている内容が難しいというのではなくて、語られている内容を理解する際に、すべてこれまで信じてきたことを手放さなくてはならないということが恐ろしいのである。この不安定なジャンプをしなくてはならない瀬戸際のところで、思わず後ずさりして、わざと理解することを保留してしまうのだ。それでいて、「この人の言うことは理解できない」と言うのである。
だが私ら凡人としては、獲得がなにももたらさないかもしれない予感を感じつつも、
そして今すべてを止めなくてはいけないことを理解しかけながら、
『「獲得の快」をもう少し味わわせて』、と、これまでの日常に固執してしまう。
そして決定的なショックを伴う出来事が起きるまで、夢を見続けるのである。
うーむ、哀しい。